昔の集印帖wiki

御朱印の値段

御朱印の値段

このサイトでは、大正から昭和前期の御朱印を多数紹介しているが、この御朱印、当時はいくらくらいだったのだろうか。現代では、御朱印を一つ押してもらうと、その代金として300円から500円を払う例が多いようだが、昔の値段がわかる資料を見つけたので紹介したい。

 吉屋信子『私の雜記帳』

吉屋信子は、明治29(1896)年生まれの小説家。
この人は昭和12(1937)年に『私の雜記帳』(※1)という本を出しているが、その中に、昭和10年頃の御朱印の値段がわかる随筆が二本収められている。

「納經帖」

一つは、「納經帖」という随筆で、元は「文藝春秋」昭和9(1934)年8月号に掲載されたもの(※2)。内容は、昭和7(1932)年に、平泉の中尊寺金色堂を見物したときのエピソードや、昭和9(1934)年5月、京都の清水寺や和歌山の青岸渡寺などを参拝したときの記録である。
ここでは、御朱印が押される本を「納經帖」と呼び、御朱印のお礼には5銭から10銭払ったと書かれている。

 一昨年の夏、平泉へ金色堂など見物に行つた時、あの邊舊跡の御堂のなかで、大きな判を帳面に押して貰つてゐる人達を見て、もの眞似では人後に落ちぬ私が、早速一册の納經帖といふのを求めて、古い堂やお寺の印をぺたぺたと押されて喜んだ。御禮には、五錢か十錢置けばいゝのだつた。

 先日京都の葵祭の美しいポスターを見たら、ふらふらと汽車に乘つてしまつた。そして新緑の京洛へ着くと、古い瓦のお寺の屋根が青葉がくれにたくさん見えたとたん『あら、納經帖忘れて來ちやつた!』と鞄を叩いたら、同行のT子は落付き拂つて、『新しく買へばいゝわ。』と京極通りのさくら屋へ入つて、小型のを一册買つて呉れた(※3)。

 それを持つて、私は京の古い寺々を巡つた。五月の京都の寺院の風景は、ほんとによかつた。清水寺にお詣りした時、三年前のやはり青葉の頃、三宅やす子さんと此處へ來たのを思ひ出した。

 (中略)

 三年後の同じ季節再び訪ふ清水寺の石段の前、あのベンチは初夏の陽を浴びて置いてあつた――でももう三宅さんはそのベンチの上はおろか、この地上のどこにもゐないのだ……

 かなしい氣持で私は石段をあがり、觀音堂の前に亡き女友達の冥福を祈つて納經帖を差出すと、西國十六番清水寺と朱の判が押された。

 (中略)

 さて、東京へ歸つてから荻原井泉水著の(遍路と巡禮)(※4)を讀んだら、そもそも納經とは自分の寫經した一卷を寺院へ奉納して、その受納の判を貰ふのが事の起りと書いてあつた――して見れば、五錢白銅一つぽんと投げ出して無造作に判を押される近頃大流行の納經帖など、思へば淺ましくもえげつないものである――とはいへ、古い寺寺の巡拜紀念旅路の思ひ出として殘された判の樣々は、時折感冐でもひいて籠るつれづれには、私は取り出して眺めて樂しまうと思つてゐる。許させ給へ、觀世音。

吉屋信子. "納經帖". 私の雜記帳. 吉屋信子著. 實業之日本社, 1937.7, p.317-322 より抜粋

「巡禮の道を辿りて」

吉屋信子の『私の雜記帳』には、「巡禮の道を辿りて」という随筆も収録されている。元は「主婦之友」昭和11(1936)年5月号に掲載されたもの(※5)で、昭和11(1936)年3月に、西国三十三所の第1番青岸渡寺、第2番紀三井寺、第3番粉河寺、第6番南法華寺を巡ったときの記録である。
前の随筆では「納經帖」だったが、こちらは「納經帳」となっており、御朱印は10銭だったと書かれている。

西國札所第一番青岸渡寺

 (中略)

 私も、香を獻げて、拜せし後、納經帳に、記念に御印を戴いた。奉納、那智山尊照殿、と黒の印の上に、西國第一番札所と朱で押され、圓光形の梵字の朱印の下に、那智山納經所と四角な朱印、これも美しかつた。

 この納經の御印といふ言葉は、昔は巡拜巡禮の人々が、自ら觀音經を淨書した一卷を奉納し、その受取として、御印を戴いたのが、事の起りだといふのに――今は、うつりゆく世のあさましさ、納經所へおぼしめしの小錢を、ちやらりと置いて、まるで切手でも賣って貰ふやうな氣安さで、平氣でポンポン押して戴く流行となつたらしい――と、知つたかぶりをして歎く、その私が、なんとやつぱり、その時、紺地に金泥で書いた經文一卷獻ぐる代りに、銀貨一枚獻げて、みごと、美しい納經の御印をせしめてしまつたとは、奉納としるされし、その文字の手前も恥しい。やつぱり、私も現代輕薄兒のひとりだつた。

 

西國札所第二番紀三井寺

 (中略)

 納經所のところでは、繪葉書や案内記を、澤山ならべて、幾人もの執事さん達が、めいめい幾つも御印と印肉壺を控えて、ずらりとならんでゐられた。かうなると、お寺商賣ぶり鮮かで……恐れ入り、少し寺院の神秘が薄れる。

 でも、恐る恐る納經帳を差し出すと、ぺたりと、西國第二番、寶珠形梵字の蓮華臺の下に、紀三井寺、金剛寶寺、と押してくださる。那智の第一番から、續いて今第二番の御印が、ならんで、子供つぽく嬉しがつて、朱印の跡を眺めてゐたら、その耳の傍に聲あり矣!

十錢戴きますゥ。』

 事務的な、その聲――はつとして、私は朱印から眼を離して、お財布を慌てゝ取り出した(きつと、こいつたゞで印をせしめるつもりかと、心配なさつたのだらうが。)

 お蔭で紀三井寺の幻想は、吹き飛んでしまつて、大いそぎで本堂を跳びだした。まつたく、こんなのは、どうかと思ふ。

吉屋信子. "巡禮の道を辿りて". 私の雜記帳. 吉屋信子著. 實業之日本社, 1937.7, p.296-316 より抜粋

 現代との比較

吉屋信子の随筆から、昭和10年頃の御朱印の値段は5銭から10銭だったことがわかったが、これを現代の価格に換算すると、いくらくらいになるだろうか。
たとえば、当時は郵便はがきが1枚で1銭5厘だったが、今は52円なので、5銭だと約173円、10銭だと約347円になる。
また、企業物価指数や消費者物価指数を使って計算する方法もある(※6)。2015年の企業物価指数で換算すると、昭和10年の10銭は約71円になり、消費者物価指数で換算すると、10銭は約180円になる。

換算方法5銭10銭
郵便はがき173円347円
企業物価指数36円71円
消費者物価指数90円180円
このように、換算方法によってずいぶん違いがあるが、現代の御朱印は300円から500円なので、おおまかに見ても、当時のほうが安かったようである。

 まとめ

昭和10年頃、御朱印の値段は、5銭から10銭だった。現代の御朱印は300円から500円なので、それと比べると安かったらしい。

※1
  吉屋信子著. 私の雜記帳. 實業之日本社, 1937.7
※2
  吉屋信子. "納經帖". 文藝春秋, 1934.8, 12巻8号, p.14-16. この作品は、文藝家協会編. 文藝年鑑. 1935年版, 改造社, 1935.10 にも収録されている。しかし、朝日新聞社から出た『吉屋信子全集』には収録されていない。
※3
  「京極通りのさくら屋」は、天保11(1840)年に開業して、平成23(2011)年に閉店した「さくら井屋」ではないかと思われる。「さくら井屋」については、鈴木俊幸著. 絵草紙屋江戸の浮世絵ショップ. 平凡社, 2010.12 (平凡社選書) や、鈴木俊幸著. 書籍流通史料論序説. 勉誠出版, 2012.6 にくわしく書かれている。 また、小型の納經帖を買ったとあるが、集印帖の卸売りカタログによると、3寸×4寸(9.1×12.1cm、だいたいB7判)のサイズだったと思われる。
※4
  荻原井泉水著. 遍路と巡禮. 創元社, 1934.3 この本は、国立国会図書館デジタルコレクションで全文が公開されている。この本には西国三十三所の巡礼記が収められているが、吉屋信子はp.194-195にある、大正14(1925)年に西国第1番青岸渡寺を参拝したときのエピソードを参照したと思われる。

 前日、京都を立つ時、普門品一卷を寫經して、私は持つて來てゐた。其を佛前に納めた。而して「奉拜、那智山大悲殿」と記した紙に執事の印をいたゞいた。凡そ「納經」といふのは、斯樣にこちらから經を納めて、其受納の判を貰ふのであるが、當今では、寺に「納經所」といふ札が掛けてある所へ、誰でも帳面をつき出すと、判を押してくれる。巡拜の紀念とする意味にとゞまつてしまつたやうである。私とても三十三靈場の悉くに、ほんとうの納經をする事は出來ないと思ふが、せめて第一番の靈場だけには、古式のまゝにしたいと思つたからである。

荻原井泉水著. 遍路と巡禮. 創元社, 1934.3. p.194-195より引用

※5
  吉屋信子. "巡禮の道を辿りて". 主婦之友, 1936.5, 20巻5号, p.222-233. この作品も、朝日新聞社から出た『吉屋信子全集』には収録されていない。
※6
 昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか? (日本銀行). 2016.8.30参照


2016年8月30日作成 [集印帖全般]

最終更新時間:2019年01月28日 15時17分12秒